ダーク ピアニスト
―叙事曲1 Geburtstag―

第9章


 「え? ぼくにピアノを?」
驚いたようにルビーが言った。明るい陽射しが差し込んでいる。その光の中でジェラードは微笑んでいた。
「ああ。この間、ノイエハルト婦人のところで弾いた坊やのピアノがあまりにも素晴らしかったので、ぜひ自分の家のサロンでも弾いて欲しいと言ってるんだ。彼はヘル ロッペグラフ。先方は演奏料として5000ユーロ出すと言ってるんだが、どうだね?」
「5000ユーロ? それだけあったら、イチゴキャンディーが100個買える?」
ルビーが目を輝かせて訊く。
「ああ。買えるとも」
「それじゃあ、ぼくその人のサロンでピアノを弾くよ。いいでしょう?」
ルビーが言った。
「ああ。もちろんだとも。彼も喜んでくれると思うよ」
ジェラードもにこにこと頷く。
「それじゃあ、詳しいことが決まったら連絡する。もういいから外で遊んでおいで」
「はい。ジャラード」
ルビーはうれしそうに頷くと外へ出て行った。そして、入れ替わりにギルフォートが入って来た。

「ああ。ルビーは承知したよ。ギルフォート、おまえが言った通りにね」
ジェラードが新しい葉巻を取り出したので、男はさっとライターで火を点けた。ジェラードはそれを満足そうに吹かして言った。
「あの子のピアノは特別だ。そこにいた者を強烈に魅きつける効果がある。その間にこちらは仕事がやりやすくなるという訳だ。いわばこれは師匠と弟子の絶妙なコンビプレイとも言えるな。期待しているよ、ギルフォート」
「はい」

それは彼が提案したことだった。ルビーは例のパーティー以来、人込みに出るのを恐れるようになってしまった。人の声や雑踏がまるで悪魔か怨霊の声に聞こえると言うのだ。ギルフォートの側にいる時にはそんなことはなかったが、家では、夜、急に奇声を発したり、泣き出したりして周囲を困らせているという。それはほとんど赤ん坊の夜泣きと同じ現象だったが、屋敷には子育ての経験がある者などいなかった。結果、闇雲に怒ったり叱ったりするばかりで、状況を悪化させた。

ただ唯一、ピアノを弾いている時だけは彼にとっては幸福な時間だったらしい。余計な雑踏も何もかも聞こえなくなって自分の世界に入り込み、がんじがらめに閉じ込められていた魂を解き放つ。そして、自由な時の流れの中に身を置いて、好きなだけ遊ぶことが出来る。それは、彼の心のバランスを保つための必要不可欠な時間だった。ならば、そのピアノを利用して、何とか人間や人込みに対する恐怖症を治せないかとギルフォートは考えた。それと同時にジェラードの彼に対する評価を高める方法はないものかと……。

そこで彼は画策した。ルビーのピアノに興味のありそうな人物とコンタクトを取り、彼を招いてコンサートを開きたいと依頼させる。

――本当かい? あの子のピアノが聴けるなら演奏料は言い値で払おう

先方は喜んでその話に乗って来た。実際、ルビーの演奏の実力はプロ以上のものだったからそれ自体は驚くべきことでもない。その人物からしたら、そのために払う金額など子供の小使いでしかないのだ。が、その人物にとっての本題はそのあとだ。

――確かに君自身の仕事として引き受けてくれるんだろうね?
――ご不満ですか?
――とんでもない。こちらとしては申し分ないよ。まるで宝くじに2度当選したような気分だよ
――わかりました。では、取引成立ということで

ルビーに払った2000倍もの金額をグルドの組織に払ってまで依頼するある人物の抹殺。それを組織でナンバー1のスナイパーであるギルフォート グレイスが引き受ける。そんな好条件をつけられては先方にとっては文句のつけようがない。そして、それはギルフォートにとっても悪い条件ではなかった。ピアノの音は用心深いターゲットに音や気配を察知される機会を限りなく減らしてくれるだろう。と同時に周囲の人間達の気を逸らすにも十分だ。特に今度のターゲットには優秀なSPが付いており、これまでも何度か仕損じている人物だった。無論、それはギルフォートの仕事ではなかった。依頼が来れば引き受けるつもりだったが、他の人間に依頼するより何倍も料金が高い。その代わり狙った獲物は確実に仕留めるという、「銀狼」の異名を持つ彼。その彼本人から打診されたのだ。先方からすればそれを断る法はない。節操もなく、すぐに飛びついて来た。


 「ギル!」
外に出ると向こうでルビーが手を振っていた。
「ねえ、見て! ぼく、大きな穴を掘ったの」
確かに彼の足元には穴があった。手には大きなスコップを持っている。
「何だ、落とし穴か?」
「ううん。ちがうの。もっとうんと深く掘ってTokyoまで行くの」
「Tokyo?」
「そうだよ。TokyoはJapanにあるんでしょう?」
「ああ」
「だから、ぼく穴を掘ってるの。地球は丸いから土の下でみんな繋がっているんだって……。それで、Japanはドイツの裏側にあるから一生懸命掘ったら行けるようになるって……。ねえ、ギルも手伝って? ぼく、早くJapanに行きたいの」
ルビーはうれしそうに作業を続けている。

「誰がそんなことを言ったんだ?」
「ウーリーとカルツェンだよ」
ギルフォートはそっとスコップを持った彼の手を止めて言った。
「Japanはドイツの裏側にはないよ。それに、いくら掘ってもそこには行けない」
「それじゃあ、何処にあるの?」
「もっと遠くに……」
「遠く?」
遠ざかる馬車の陰影が頭をよぎった。
「ウーリー達が言ったのは嘘だったの?」
「ああ」
ルビーはパッとスコップを放した。その手が赤い。穴は60センチくらいの深さになっている。固い地盤だ。これだけ掘るのは大変だったろう。擦れて赤く腫れあがってしまった自分の手を見てルビーは泣き出した。

「信じたのに……。ぼく、信じたから、それで……!」
「泣くな。Japanへは飛行機で8時間も飛べば行ける」
「飛行機に乗れば行けるの?」
「ああ」
「いつ?」
「いつか……」
男の言葉にルビーは俯いた。遠くという言葉といつかという言葉は、同じ響きを持っている。漠然としてつかみどころがない。そして、得たいが知れない。妙に不安を掻き立てる。それはまるで叶わない願い事であるかのように彼を急速に悲しくさせた。信じても信じても裏切られる現実に打ち震える心。
「笑ってるんだね……?」
溢れる涙を手の甲でしきりに拭ってルビーが言った。

――先生! またルイが間違ってまあす
――勉強もスポーツも何をやってもだめなんだ
賑やかな教室の雑踏と笑い声……。
(やめてよ! やめて! お願いだから……)
黒い影絵のような子ども達……。そんな子ども達が何度も笑いながら頭の中を通り過ぎて行く……。
――そんなに何も出来ないなら、生きてる意味がないじゃんか!
「意味が……ない……?」
ルイが訊いた。
――そうだよ。いつもおれたちの足を引っ張ってばかりいて……おまえなんか邪魔だ。消えちゃえ!
――ほら、また間違えた
――あはは。間違えた!
彼を取り囲みはやし立てる子ども達……。

葉ずれの音がそんな昔の記憶を運び、彼とその前に立つ男の影の中に消えた。が、吹く風に乗って声だけが耳の中にいつまでも残って笑い続ける。拒んでも拒んでも嘲り続けるその声に押し潰されそうになりながらルビーは言った。

「みんな、そうやってぼくのことを笑ってるんだ……! 何も出来ないと思って……。何も知らないと思って……! みんな……みんな……!」
「そうだな」
彼はあっさりと肯定した。それを聞いたルビーは呆然としてその顔を見上げる。
「ギルもなの? ギルも……そう思ってる?」
ルビーは涙を拭うことも忘れて訊いた。
「いや」
ギルフォートは否定した。が、あとで言葉を付け足した。
「思ってないよ。でも、今のままでは駄目だ。もっとたくさんのことを知り、もっと広い世界を見なければJapanへ行くどころか一生、他人から蔑まされ、笑われて生きることになる」
「いやだよ。そんなの……」
ルビーは抗うような目で彼を見た。
「なら、どうする?」
じっとその目を見つめて問い掛ける。
「もっと勉強する」
やがて出して来たその答えにギルフォートは満足した。
「そうだな」
「でも、どうしたらいいの?」
不安そうな子供の頭を撫でてギルフォートは言った。
「一緒に考えてやる。だから、来い。いい所へ連れて行ってやる」
「いい所?」
期待に顔を輝かせてルビーが訊いた。
「いい所って何処?」
「おまえが憧れている場所へ……」


 その店はルビーが知っている他の店とは随分雰囲気が違っていた。並んでいる物も流れている音楽も、そして、そこで話されている言葉も……。
「日本語……?」
ルビーが呟く。
「そうだ。ここは日本の物を専門に扱っている店さ。客も店員も日本人が多い。ほら、どうした? 話し掛けたらちゃんと日本語で答えてくれるぞ」
後ろに隠れてもじもじしている子供の手を引いて前に出そうとするが、ルビーは俯いたままその手にしがみついて離れない。
「どうした?」
「……いやだ」
そう言って彼は固く目を瞑る。見慣れない雰囲気の人達と聴き馴染みのない民族楽器の音が不気味に思えた。錯綜する言葉のリズムは確かに日本語だった。が、それは昔、母親が話していたやさしい響きではなく、まるで怒ったり罵ったりして迫って来る恐ろしい怪物の声のように思えた。

「怖い……」
そっと目を開けると恐ろしい形相をしたマスクが自分を睨んでいる。
「怖いよ」
闇の中に潜む怪物がいきなり自分を襲って来る。そんな妄想が彼を苦しめた。そして、呪いのような言葉が彼を奈落へ引きずり込もうとする。
「いやだ。帰ろう」
ギルフォートの手を取って引っ張った。と、その時。店内に大きな音が響いた。爆弾が破裂したような音だった。が、誰も動揺する者はなく、ギルフォートも何も言わない。
「何の音?」
そっと目を開けて見る。と、そこには大きなスクリーンに映し出された花火が人々の目を引いていた。それは様々な形と色で次々と変化し、目を楽しませた。
「きれい……」
ルビーも思わず呟いた。

「仕掛け花火だってさ。いい物が見れたな」
ギルフォートが言った。
「うん」
ルビーは軽く頷くとふと足元近くの棚にあったそれを見つけた。硝子で出来た小さな玉を……。手に取ると照明の光が反射して輝き、店内が逆さまに映った。そして、自分自身の顔もそこに映り込んでいる。あの日と同じように……。
「ビー玉……」
彼はそれが何なのか知っていた。彼が幼かった時、それで遊んだことがある。母はそれをビー玉と呼んでいた。光り目が美しいと思った。同時にその中に閉じ込められた時間の中で母が微笑んでいるような気がした。失くしてしまった遠い時間がその中に存在している。そんな錯覚に捕らわれて彼は懸命にその中を覗いた。その時間に触れたくて、自分をそこに閉じ込めたくて、じっと目が離せないでいた。

「それが欲しいのか?」
ギルフォートが訊いた。ルビーが頷く。と、彼はそれをレジに持って行った。
「ありがとうございました」
会計を済ますと浴衣姿の女性店員が日本語で言った。
「ありがとう」
とルビーも日本語で返してそれを受け取る。彼女が微笑んでくれたのでルビーも笑った。それから、車の中でもずっと彼はビー玉を握り締めていた。
「また、あの店へ連れて行ってくれる?」
「ああ」
光に透かして見た丸い硝子の中に見えるのは、遥かな夢や未来や言い表せない気持ちのすべて……。それから、ルビーのポケットにはいつもビー玉が入っている。彼は時々手を入れてそれを握り、確かめてみる。そして、光に翳しては周囲を映し、自分をそこに閉じ込めて満足した。それは、ルビーにとって失くしてしまった母親の面影であり、過去へも未来へも、そして、自らの心の奥深く、憧れの日本へも通じている秘密の扉だった。


 それから2週間が過ぎ、サロンでのコンサートの日が来た。だが、その日、ギルフォートもジェラードも一緒ではなかった。ルビーは一人で車に乗せられ、会場であるヘル ロッペグラフの家へ向かった。運転しているのはカルチェル。ルビーは後部座席でポケットに手を入れたままじっと窓の外を見つめていた。緑の森が続いていた。巨大な怪物のような緑が……。

――そうして、ヘンデルとグレーテルの兄妹は森へ捨てられてしまいました

エスタレーゼが読んでくれた絵本の一説を思い出してルビーはぎゅっと強くビー玉を握った。
(ぼくも捨てられる? 悪い子だから捨てられる? いらない子だから……)
地下室で目を覚ました時、自分は捨てられたのだと思った。父親にとって自分はいらない子だから捨てられたと……。そして、2回目に目を覚ました時。そこは病院だった。が、そこにはやさしい看護士がいた。その病院ではみんな、彼に親切にしてくれた。甘いプリンも食べさせてくれた。しかし、彼が少し元気になった頃、また別の病院に移された。そこがあの嫌な精神病院だった。やさしい人々がいた病院からさえも彼は見捨てられた。そう思って悲しかった。
(それじゃあ、グルドからも捨てられる? ぼくがいらない子だってわかったら……? 捨てられて食べられてしまうんだ。バリバリとかじられて……)

――森には恐ろしい魔女が住んでいて、子供をバリバリと食べてしまうのです

(いや! いやだよ、来ないで!)
ルビーは思わず悲鳴を上げそうになって胸を押さえた。
(森がぼくを見てる。森は人間が嫌いなんだ。人間が森を汚すから……。道路を作って車をいっぱい走らせて、森は眠れないって怒ってる。緑の怪物がぼくを襲う。食べちゃうぞって脅かすよ。動物達も怒ってる。空も地面も何もかも……。見えない過去も怒ってる。人間が人間を怒ってる。声が聞こえる。見えない声が……。姿が見える。聞こえない影が……それは、ぼくが悪い子だから? それとも、ぼくの頭がおかしいから? ぼくが考えることはいつも他と違う。みんながぼくをおかしいって言う。でも、ギルは……)

――来い。一緒に考えてやる

握り締めたビー玉が熱く鼓動を打っていた。
(アインツ、ツバイ、ドライ……)
彼は数を数え始めた。鼓動の数。木の数。鼓動の数。そして、やさしさの数……。


 それから1時間ほどして車は目的地へ着いた。そして、ルビーも数を数え終えた。
「100」
ルビーが言った。
「何?」
カルチェルが訊き返す。
「何でもない」
ルビーは言った。が、その頬は紅潮し、鼓動は高鳴っていた。
(100まで数えられた)
ルビーはうれしくて早くそれを報告したかった。が、彼はそこにいなかった。代わりにブロンドで青い目をした中肉中背の男がルビーを歓迎した。ロッペグラフだ。
「やあ。よく来てくれたね。今日、君に会えるのを楽しみにしていたよ。君の演奏の素晴らしさを私は誰よりも理解しているつもりだ」
「ありがとうございます」
無難な挨拶が済むと彼は遠くから来たルビーに気を使い、いろいろともてなしてくれた。最高の料理。最高のワイン。そして、華やかな演出。申し分のないパーティーだった。が、それでも時折襲う不安の影をルビーは完全に払拭することが出来ずにいた。
(どうしてぼくは独りなの? もし、ここにギルやエレーゼが一緒にいてくれたら……)
不安を消すためにワインを飲んだ。

――飲み過ぎるんじゃない

ギルフォートの声が聞こえたような気がして振り向くが、そこには見知らぬ人間のジャングルがあるだけ……。
(気持ちが悪い……)
微かに手が震える。彼は慌ててポケットに手を入れた。
「ぼくが弾くピアノは何処ですか?」
案内されて軽く鍵盤に触れてみた。スタンウェイの高級機種であるそれはタッチも音色も完璧に調整されていた。
「どうですか? 何か気になることがありましたら何なりとお申し付けください」
ロッペグラフは笑顔で言った。
「いえ。何もありません。あとはこのピアノにぼくの演奏が加われば正しく完璧になるでしょう」
高飛車な言い方だが、ロッペグラフはルビーを崇拝していたので当然とばかりに頷いてみせた。
「それじゃあ、時間まで少し散歩して来てもいいですか?」
「もちろんです。誰かお供をお付けしましょうか?」
「いいえ。少し人込みを避けたいので……」
ルビーが言うと主人は納得し、簡単に屋敷の周囲の地形について説明してくれた。

 「付いて来るなよ」
ルビーは言ったが、周囲に人影はない。
「いやだってば、聞きたくないんだ」
彼は耳を塞ぐ。
(どうしてなんだろ? ぼくにはちゃんと見えるのに、ぼくにはちゃんと聞こえるのに、みんなは知らないって言うんだ。気のせいだろって、風の音がそんな風に聞こえるだけだって、でも……)
そこに悲しみはあるのだと彼は思った。苦しみは常に偉大な何かと対をなして存在している。しかし、多くの人間はその辛さや苦しみから逃げ出してしまったり、越えられずに嘆いたり悲しんだりばかりしている。それでは何も解決しはしないのに……。
「でも……」
彼は両手を高く天に翳した。愛して欲しかった。そして、認めて欲しかった。神に? 父に? ギルフォートに? 満たしてくれるものが何もなかった。彼は膝を突き、自分で自分を抱き締めた。あとどれくらいがんばれば褒美がもらえるのかと、天に正してみたかった。しかし、天から舞い降りた風は答えを運んでは来なかった。ざわざわと鳴る木の葉の音も今は森の魔物の声としか思えない。絶望の先にある光明を今は見出すことが出来ずに、ルビーは暗闇の中でいつまでも佇んでいた。

それからどれくらいの時が過ぎたろう。ふと、やさしい声が聞こえて来た。誰もいない筈の場所から……。それは人間の声だった。祈りの言葉……。透き通った精霊のような声で誰かが聖書を朗読しているのだ。ルビーは葉陰の奥から聞こえるその声の持ち主が気になってそっとそちらに近づいてみた。そこにいたのは白いドレスに亜麻色の髪をした美しい女性だった。華奢な白い手に抱えられた黒い表紙の聖書。しかし、その瞳は愁いに沈み、透けるような肌に血の気はない。様子がおかしいと思ったその時、彼女の手に握られていた銀色のナイフがすっと自らの喉元に向かい、聖書が足元に滑り落ちた。
「Nein!」
すかさず飛び出したルビーがその手を押さえた。鋭利なナイフは彼女の白い肌の上で静止した。
「お願い。死なないで」
必死に訴える彼の手にそっと自分の手を重ねて彼女はじっとルビーを見つめた。その顔は幼く、年齢的にはルビーとそう変わらないように思えた。

「あなたは誰? 天使?」
「ちがうよ。ぼくは、ルビー ラズレイン」
「ルビー?」
彼女は何かに思い当たったように続ける。
「もしかして今日、ピアノを弾いてくれる人?」
「そうだよ」
彼女は寂しそうに微笑した。
「そう。聴きたかったわ。あなたのピアノ……」
それはあまりに弱々しい声だった。
「どうして? 聴きたいのなら聴けばいい。何故聴くことが出来ないの?」
彼女の手が震えている。
「聴けないわ。だって、わたしは……」
その手からするりとナイフが滑り落ちた。それを拾ってルビーが言った。
「これは、ぼくが預かっておく。ぼくの演奏が終わるまで……」
「ルビー……」
「君のために弾くよ。だから……」
彼女の頬に涙が伝う。
「どうしたの? 何があったの? 君を泣かせた悪い奴は誰?」
「それは……」
彼女は目を伏せて言った。
「ゲルト ラード ケスラーよ」
「ゲルト……」
その名前の人物を彼は知らなかったが、妙に不快感を覚えたのは昔、自分をいじめた同級生と同じ名だったからかもしれない。

――おまえなんか消えちゃえ! どうせ社会の役に立たないなら、生きている意味がないじゃないか

学習障害のあった彼を馬鹿にした子ども達……。蔑んだ瞳。

――このままでは一生蔑まされたまま生きることになる

(ギル……)

――おまえが入ったチームはいつも負けちゃうじゃないか! おまえなんかいなきゃいいんだ。役にも立たず、生きている意味のないおまえなんか……

(ちがう。ちがうよ。意味はあるんだ。ただ、その意味を今はまだ見つけられないだけ……)

「そいつが君に何をしたの?」
葉陰の闇を見据えてルビーが訊いた。
「今夜、あなたの演奏が終わったあとで婚約発表をするの」
「婚約?」
「そうよ。28も年の離れたあの男と無理矢理結婚させられるの。愛も何もないあの人と……。わたし、本当に死んでしまいたい……!」
そう言うと彼女は手で顔を覆った。
「どうして結婚させられるの? いやだって言えないの?」
彼女は小さくため息をついて言った。
「2ヶ月前にお父様が亡くなって家には莫大な借金があるの。それも元はといえば、あのケスラーに騙されたせいなのだけれど……。その心労がたたってお母様は病気になってしまった。だから、もうこれ以上は負担を掛けられないの。わたしが彼と結婚すればその借金をすべて帳消しにしてくれるとケスラーが約束したの。だから、わたし……」
彼女の瞳からまた涙が溢れた。

「でも、耐えられなかった。そうでしょう?」
ルビーの問いに彼女が頷く。
「なら、我慢することなんかないよ。ぼくがそいつをやっつけてあげる」
「ルビー……」
彼女は寂しそうに微笑した。
「だから、もう死ぬなんて言わないで。ぼくのピアノを聴いてくれるね?」
「ええ……」
彼女は頷く。
「君の名前は何ていうの?」
「フローラ」
「そう。フローラ。君のために心を込めて弾くよ。そして……」
(ぼくがそいつを消してやる)
ざわめく怨霊達の呪いの言葉を打ち消して彼の心に強く響く鼓動。ポケットの中のビー玉。その中に閉じ込めたナイフ。その銀色に絡みつく鮮血と悲鳴。
(もう二度と繰り返さない)
それは譜面にはない嵐のような激情と鼓動。
(もう誰も泣かせない。君も母様も……)
悲しみを封じ込めた硝子玉……。その滑らかでやさしい感触をそっと指で確かめる。そして、落ち着いて不安定で危うい心に十字架を飾る。聖なる血に塗れた銀色のそれを……。何処か遠くで闇の獣が吠え立てていた。境界のない、無限という闇の中で……。自己と他者、自分と宇宙を分けるもの。そして、内と外を繋ぐもの。その闇の空を切り取って黒い表紙が浮かぶ。
(聖なるそれに何を誓う? 闇の心は何を望む?)
最初のページにあるものを彼は知らない。それは既に存在し、失くしてしまった言葉だから……。彼にとっては必要がなかった。闇の中……。黒い表紙を引き裂いて闇の獣の正体を知る。

――消えちゃえ! 意味がないなら……

――一緒に考えてやるから……

(わかってる……)
銀色のそれを握り締めたまま彼は泣いた。もう二度と引き返すことの出来ない深い闇のトンネルの中で……。
「大丈夫。今度はきっと上手くやる」